好き勝手書くブログ

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小保方氏会見

小保方氏の会見が行われた。

先日までのエントリーがSTAP細胞疑惑の件から始まっているので、私の感想を書こうと思う。

今回問題になっているのは「論文の内容が捏造に当たるかどうか」である。理研は「捏造」と認定した。小保方氏サイドは「捏造ではなく間違いだ」と主張した。まあ今までと基本的な構造は変わっていない。ただし「未熟ゆえのミスであり処分は不当」という小保方サイドの説明は弱いと感じた。

まず小保方氏はユニットリーダーで筆頭著者だ。基本的に論文に責任を持つ立場である。また博士号を取得している一般的に認められた研究者=科学者である。確かに科学者としては「ペーペー」かもしれない。が、だからといって許される部分とそうでない部分はある。

例えとしては以下が適当と思われる。

「自動車運転免許を取ったばかりで交通事故してしまいました。まだ運転が未熟でした。すみません。」これでこの運転者の過失責任が軽減されるか?通常されないだろう。この運転者は確かに取得して何年も運転しているベテランドライバーから見れば運転技術は確かに未熟である。しかし、運転免許をもらっているということは、一定の認定を受けて、一般交通社会に一定の責任を持って運転することを認められている。仮免許で路上を走るのとは意味合いが違う。そこに運転技術の良し悪しは関係が無い。

科学者といわれる方々は、一定の認定「学位」をもってその職についているのだから、未熟の一言で片付けることは乱暴である。今回の論文のケースでは、画像が別のものと取り違えられていたり、加工されていたりした。この件でもし「間違っていた」なら、チェックの甘さを指摘されて当然だ。しかもノーベル賞級といわれる内容だ。間違えたら大変なことになるのは、専門家でなくても解る。慎重に何重ものチェックをして投稿しようと思うのは当然だろう。それでも間違えたのである。これは責任追及されても仕方が無い。論文は小学校の作文ではない。「間違えました。次がんばりましょう。」で済まされるわけがない。査読のときにわからなかったのかなどど、当の本人が言える立場でもないだろう。そもそも査読でわかる間違いなど論外だ。

論文が取り下げられると研究が白紙になるからという思いがあるとも語っていたが、そもそもその事態を招いたのは自分だ。だから慎重に何重ものチェックを重ねて論文を提出しなければならない。それを怠ったツケが研究が白紙になるということだ。社会と言うものは厳しい。自分の行動には責任が必ず付いてくる。行動にはリスクが必ず付いてくる。今回は自分の行動が失敗だった為、リスクを負う立場になったのだ。

したがって残念ながら論文については、擁護する気にはなれない。撤回も致し方なしである。研究は自分とそれを信じているメンバーで細々とやるしかない。それが今回の事態の報いである。

ただし、STAP細胞そのものの真偽はいまだ定かではない。本当に信じているのであれば、本当に有意義なものになると確信しているのであれば、万が一理研を追われる立場になっても自力で研究を続ければよい。また、他の研究者で研究したい者がいれば、研究は進む。ただ、自分が賞をとるような功績にはならないかもしれないが。

ただし、理研も同様に責任の一部を負わなければ話にならない。共同研究者の中には「騙された」形になった者もいるだろう。その者に責任を負わせるのは酷である。しかし理研はその立場ではない。任命責任はある。若い研究者ならもしかしてケアレスミスがあるかもしれないと、チェック体制を整えるようなことは出来たはずだ。一般企業でも若い者がリーダーで仕切るプロジェクトを組むこともあるが、その場合はその上に立つ責任者を別に置き、そのものにチェックをさせるのは当然である。チェックがザルのまま例えば新しい商品に欠陥が生じたばあい、会社が責任を取るのは当然である。担当者リーダーが責任を取って辞任しましたなど笑い話だ。その担当者は当然社内で何かのペナルティは受けているが、対外的には会社、重役、社長が責任を取るのは当たり前のことなのだ。ましてや、小保方氏は英語が苦手で、英文論文を書けず、別な人間が英訳しているという情報もある。それでは理研は責任を逃れることは出来ないだろう。

 

私が懸念している最悪のシナリオは、理研が小保方氏の解雇を発表。小保方氏は研究者としての道が閉ざされ、いつの間にか理研で別のプロジェクトリーダーが同じSTAP細胞の研究をし論文発表、正式に認められるなどの事態になることだ。トカゲの尻尾は切るがおいしいところはイタダキ。これは最悪である。理研は今回の件ではっきりとした謝罪会見を開き、STAP細胞を今後も研究対象にする場合は小保方氏も研究メンバーとして入れなければもう筋が通らない。それで世界から信用が失われてもそれは自分の責任である。入れないなら正式に研究対象から外すしかない。誰かにその功績を横取りされようとも。

 

今回の会見で「かわいそう」という感情的な擁護も目立つ。確かにかわいそうな面は一部ある。しかし一度「社会人」として「研究者」ましてや「リーダー」になったからにはその責任の重さを認識してもらわなければ、話にならないというのが私の感想である。