好き勝手書くブログ

日々のニュースや出来事の中から書きたくなったことを突然書くブログ。

サッカーワールドカップ2014

サッカーのワールドカップ開催中だが、日本の試合がすべて終おわった。結果は1次リーグ敗退。ランキングから見たら順当な結果であるが、戦前の期待感は大きかったようでかなり落胆ムードが漂っている。

私も日本戦は全戦見たが、色々な問題点が浮き彫りになっていた。その点について書こうと思う。

 

まず、戦術面では日本はポゼッションを基本とした攻撃的パスサッカーと言うのがここ数大会の基本戦術である。ポゼッションとはボール支配のことであり、自チームがボールを持っている時間を多くして、細かくパスをつなぎながら相手を崩し、ディフェンスを走らせ、マークのギャップを作ってにゴール前にラストパスを入れるという華麗な戦術である。その華麗さから「スペクタクル」とも称される戦術だ。これをやり始めたのは恐らく中田、中村、小野といった、才能にあふれたパッサーが現れた、トルシエジーコにかけての代表からであろうと思われる。その後、ポゼッション&ショートパスサッカーの代名詞であるスペインの名門クラブバルセロナが黄金期に入り、サッカー界を席巻。体格も日本人とさほど変わらないスペインの選手が敵をあざ笑うかのように細かいパスをつなぎ体の大きい選手が集まるヨーロッパの主要大会でゴールを量産する姿に、「日本人が目指すべきところはここだ」と思ったのであろうと思われる。

しかし実際にはバルサが見せるような華麗なパスサッカーを見せることは出来なかった。なぜそうなったのか。それは監督、選手、その他関係者すべてにおいて、バルサのようなパスサッカーができるレベルに無かったことである。

バルセロナは世界的に見ても類を見ないほどの華麗なパス回しができるが、これはバルサが下部組織から徹底的にパスサッカーの技術を叩き込んでいることに由来する。バルサは世界のビッグクラブでは珍しいほど自クラブのカンテラ出身者が多い。メッシ、シャビ、イニエスタブスケッツなど中心選手は皆カンテラ出身である。また同じようなスペクタクルサッカーで前回ワールドカップを勝ったスペイン代表はほとんどの中心選手がバルサの選手で構成されている。

パスサッカーとは「パスの上手い選手が集まってできる」戦術ではない。どこにいればボールをもらえるか、もらったらどこに出すか、フリーになるにはどう動くか、フリーの味方はどこにいるかということを常に1歩先を予測し、「連動」して動くことで相手を翻弄するショートパスの連続が生まれる。それには、パスの出して、受け手がイメージを共有している必要があるという高度な戦術である。そのためバルサでは下部組織でそのイメージを共有させた選手を多く使い、スペイン代表はその共有のイメージを持つ選手を多く召集する。バルサが単純に資金力で次々選手を集めるようなことをしないのはそこに主があるのだ。

翻って日本代表は、基本的にクラブでそこまでのパスサッカーをしていない。スペインのクラブに所属する選手すらいない状況だ。そこで集まって「スペクタクルなサッカーをしよう」「それが自分達のサッカーだ」と言ったところで無理なのである。また、パスサッカーに必要なのはパスの技術以前に、ポジショニング、トラップ等の技術、視野の広さ、思考の速さが求められる。これはたかだか4年間に数試合やったからと言って身につく物ではないのだ。

日本代表は自分達の体格にあっているスタイルであると言う理由から、普段やったことの無い高度な戦術をやろうとしているのだ。アジア予選であれば全体のレベルも低く、日本は強豪国の一角なのでそれでいけるだろうが、ワールドカップではほぼ最下位ランクである。通用するわけが無いのである。

なぜそんな戦術を取りたがるのか。それははっきり言って「かっこつけ」である。初めから言い訳しているのである。守って守って無様に試合してでも勝ちたいというよりは、「負けてもかっこよく、良いサッカーを」=「自分達のサッカーを」と言い訳しているだけだ。これではチャンスをつかもうと必死な他の国に勝てるわけが無い。日本代表がやっているのは「アマチュアリズム」なのである。他国の選手達は自分のキャリアアップもかかった大会で必死に勝とうとしている。アマチュアリズムで勝ち残れるほど甘くは無い。

また、無様でもいいからと守りを固めて勝ちにこだわって戦って、結果負けたらもう残るは「実力」と言う言葉しか残らず、弱いと言う現実を突きつけられる。それを避ける為「勝ち負けより大事なことがある」などといういい訳をつける為、「弱いのに強者のサッカー」をやっているのだ。「実力以上のことをやってます。でもそれは未来の為です。ですから今回負けたのは意味がある”なので負けたのは私のせいではありません”」と言うことなのであり、「自分は間違っていない」という日本人独特の潔癖性がなせる業である。

はっきり行って強者のサッカーをやろうが、弱者のサッカーをやろうが、負けたら負けは負けであり、すべて実力であると言うのが超実力主義=スポーツである。日本的・年功序列的考えではスポーツで世界と戦ってはいけない。

今回試合後のインタビューでも選手、関係者等から「自分のサッカーを」「今までやってきたことを信じて」「自分達のやってきたことは間違っていない」などの言葉が出ているが、それで負けているのでは負けもある程度想定していたと言うことか。やり方が間違っていなかったのなら当初の目標であるベスト8とか、1次リーグ通過は出来ているはずだ。目標に達しないやり方は何であれどこかに間違いがある。逆に言えば「自分達のサッカー」が出来なくてベスト8に行ったとしたら何と言うのか。目標があるのであればまずは目標を達成すること。そのためにはどういうことが必要なのか、相手はどうなのか、その上で自分達はどうするのかそういうことが欠如した「自分達のサッカー」は単なるマスターベーションである。今大会は誰もそれには付き合ってくれなかったと言うだけだ。

結局のところ、今回の敗退は、「勝つためにはどういうことが必要で、どうすればいいか」と言う部分。自らが考えなければいけない部分、議論していかなければいけない部分を放棄して、楽な道である自分達のサッカーに逃げたことが敗因である。日本人が議論することを放棄し、自分の責任は取りたくないと考える国民性そのものである。

あの強豪オランダでさえスペインに勝つために自分のスタイルを封印して戦った。オランダはどう考えても参加国の中で強者である。強者でさえある意味での弱者のサッカーをするのである。もし負けたらおそらく非難にあうのは必至である。しかし勝つためにリスクを取ってその選択をする。日本選手が「リスクを負って勇気を持って」と言っている次元とは比べ物にならない。本当の弱者である日本が強者のサッカーをする意味を考えれば、リスクを負うとはどういうことか、試合中にリスクを負えないプレーをしてしまうのはなぜかわかるであろう。