好き勝手書くブログ

日々のニュースや出来事の中から書きたくなったことを突然書くブログ。

日本人の「潔癖性」

前のエントリーで「日本人は集団ヒステリーに陥りやすい」とした。

なぜか。

「現代日本人は異常な潔癖である」からだと思う。

また、潔癖であるがゆえに「極端」である。

例えば

ネットで平和主義的なことを書く→「左翼!!」

ネットで軍事問題に触れ賛成的な見解を示す→「ネトウヨ!!」

原発事故→「廃止!!」

地震被害→「自粛!!」

戦時中に戦争批判→「非国民!!」

などなど・・・

潔癖であるが故の極端は多岐にわたる。

なぜそうなるか?

私は「潔癖」と言うより「損をしたくない」というのが根本原因であると思う。

日本人はよく「信用」を重視する。商売でもなんでも「信用第一」これ自体は非常に良いことだ。が、ともすると過剰になりやすい。私は日本人が「信用」を重視するというよりは「損したくないから確実なほうを取る」という意味で「信用」と言う言葉を使っているのではと思う。

「信用する」というのは「信じる」ということからの発進だが、実は「疑い」から発進している。信用と言う言葉に「疑い深い」という裏返しの心理がある。

また、日本人は「和」を重視する。互いに協力し助けあうという精神で、これも大変すばらしい精神である。が、これも「和に入っていない人は「信用」出来ない。」という裏側の真理があり「疑い深い」という一面があるのだ。

 

「疑い深い」のはどうしてか。それは「損をしたくない」と言う精神からである。そのためリスクを極端に嫌う。リスクを排除(軽減)するには一定の信頼性があるほうを選ぶのが正しい。そのため一定の信頼性の根拠として「信用」を重視している。

が、ともすれば過剰になり、一定の信頼性が担保されていない物を「信用」を理由に排除してしまう傾向が非常に強いのである。

なぜ「損」を極端に嫌うかは定かではないし、それ自体は悪いことではない。損より得のほうが良いに決まっている。が、結果的に損している場面が多いのも事実だ。

例えば戦後日本企業。日本は年功序列で、欧米は能力主義。良く言われることである。

日本は「能力」よりも「信用」「和」を重視してきた。そのため終身雇用制度を取り入れ、年齢順の昇進方法(年功序列)を採用した。長く会社に勤務しているもののほうが自社にも他社にもなじみが深くなる。したがって「信用」を得ている場合が多い。また、年功序列制にすることで「年下なのに先に昇進」「同期なのに・・」といった和の乱れが極力抑えられる。結果社内の秩序が一定に保たれやすく、「信用」を重視する他者からの取引も円滑に進む。これはこれで確かにメリットである。社内が殺伐とするのは得ではないし、他社(者)から不信がられることも少なく得である。

しかし、人間はどうしても能力には差と質の違いがある。若輩でもある部分では能力の高いものもいる。逆に年配でも苦手なものはある。そこは重視されていない。したがって、個々の能力は一定の方針の前に平均化され高い能力は制限されるのである。高い能力を利用してさらに高いレベルの業績を上げるチャンスを失っているのである。実はこれは「損」である。しかし上記のことは「チャンス」があるというだけで実際に成功するかは未知数である。当然失敗の「リスク」がある。ここに「損したくない」感情が入ると「失敗したくないから挑戦しない」選択をしてしまうのが日本人である。先にあるかもしれない利益より今の損を排除する。ということだが、もし成功していたらこの選択は「損」なのだ。

それは事前に解らないのか?いや解っているはずだ。そんなに難しいロジックではないから。しかしどうしても損したくないので、自分の考えを実行するにはそれを正当化しないといけない。それしか選択が無いと思うことが必要だ。メリットとデメリットを天秤にかけてベターなほうを選択するというのは自分に「損」することを覚悟させる必要がある。しかしそれは出来ない。「損したくない」。なので「今の損を排除することが得なのだ」という結論を導き出す。実際目に見えた損はしていない。得したかもしれない可能性を失っただけで損ではない。という結論を導き出すのだ。

これは正当化である。したがって「それって損かもよ?」と指摘されると、正当化が崩れるので絶対に押し通そうとする。「私は間違ってない」となる。この思考が恒常化しているのが日本人。自分の考えは間違ってないということが基本になっているのだ。

 この思考が日本人の異常な潔癖を生んでいると思われる。

 

この潔癖感情は「この人は信用できる」と思ってそれが裏切られたとき、「損させられた」と感じるきっかけとなる。間違っていないはずの自分が間違えていたということを指摘させられる瞬間である。しかし押し通すことは出来ない。裏切られたことは確定されたからである。そうなると「私を間違えさせたのはお前だ」と言う感情になる。自分は潔癖である。間違えないはずである。間違えたのはこの人物が騙したからである。というロジックが導き出され、異常なバッシングに陥る。これが多人数になると、「和」が逆方向に暴走し「俺もそうだ」「私もそうだ」となり、集団ヒステリーの方向へ走らせることとなる。

 

このような感情が強い日本では小さな事態でも集団ヒステリーが簡単に起こってしまう土壌があるということである。

 

次エントリーはこれによる弊害や問題に触れる