好き勝手書くブログ

日々のニュースや出来事の中から書きたくなったことを突然書くブログ。

佐世保事件でどうしても気になるネットの反応

女子高校生が同級生を殺害した、いわゆる「佐世保事件」。

ネット上で非常に多く見かける言葉がある。

サイコパス

これが非常に気になる。

ニュースに書き込みができるサイトでは「サイコパスだからどうしようもない。極刑するしかない。」と言った意見が必ずあり、少ない数ではない。

サイコパスとは人格障害である。簡単に言うと他人の精神的・肉体的痛みを苦痛と感じない人。逆に快楽と感じたりする人のことである。

断言するが、この世の中にはこういった人間が現実にいるのである。殺人事件のうちいくつかの事件はサイコパスが起こした事件がある。今回の事件も加害者はサイコパスなのは間違いない。であるが、ネット上でサイコパスという言葉を簡単に使いすぎではないかと思うのである。

サイコパスは一定の確率で存在する。肉体的障害が先天的にあるように、精神的障害が先天的にあることはむしろ自然である。そしてどのような形で発現するかというパターンも無数にある。殺人鬼として発現した場合はサイコパスとかシリアルキラーと呼ばれ恐れられるわけである。

前回のエントリーでも書いたが、精神疾患とは脳の病気である。先天的精神障害は先天的脳障害である。先天的に障害を持つ方はそのケアをしながら生きていく。目が見えない、耳が聞こえない等の障害からダウン症など、一般的に知られるものはたくさんあり多くの方がそのケアを受けながら生きている。先天的脳障害であればやはり同じようにケアされながら生きていく必要があり、生きていくべきである。が、このように猟奇殺人に発展すると「抹殺せよ」とでもいいたげな問答無用論が出てくる。

私の憶測ではあるが、現代のように情報が豊富で、医療も充実した世の中ではなかった昔には恐らく肉体的先天障害があった子供はいわゆる「見てみぬ振り」をされ、現代の基準から考えれば恐ろしい「処理」をさせられた子供もいたのではないかと推測される。姥捨て山という言葉があるように。現代とは違い詳しい資料や情報が残っているはずも無く実際はわからない。しかし、冷静に時代背景やその当時のテクノロジーを考えれば絶対に無いとはいえない。むしろあったほうが自然と考える。いわゆる知的障害児を親が世間体を気にしてひた隠しにしてきたと言った話はたまに聞くことであるので、もっと情報が少ない社会では可能性はあるはずだ。

現在が先進社会であれば、サイコパスに対しても医学的、論理的に対処できないものかと思う。過去に見てみぬ振りをしていたのは対処が解らないからであり、社会として発達していないからである。現代は精神疾患に対しても医学的に解っている部分が多く、対処ができる体制が出来ている。もちろんすべてをケアできるわけではないが、全くの野放しや、極端な抹殺論が出ることは無いはずで、今回の事件に対しては、どのようにケアできるのかと言った論調が出てくることこそ先進社会ではないかと思う。

しかし一般的に先進とされるネット(私は先進とは思わないが)で、あっさりと「サイコパスは救いようが無い。」で終わってしまう論調はあまりにも旧態依然な感じがする。解らないものは抹殺=臭いものにはふたをする理論では、次回また同じことを繰り返す。猟奇殺人がおこる確率は一定の割合で確実にあるが、事の重大さから考えるとできるだけゼロに近づけたい事案である。そのために何が問題なのか検証するのは必要であり、そのためにオープンに開かれたニュースサイトで極端な抹殺論は無意味である。考えること、検証すること、議論することは重要なことであり、放棄しては発展はありえない。サイコパスの真理を理解しようとする態度こそサイコパスの凄惨な事件を未然に防ぐ方法であるのだ。

犯人を抹殺するだけの論調ではなく、二度とこのような事件が起きないため論調を期待したい。

 

*ネットにおいてサイコパスだとの断定を多く見るのは、恐らくドラマ、漫画、映画に出てくるサイコパスの描写そのままのイメージで捉えているだけと思われる。その背景や、原因などは追究されず、オカルトやホラー的に「頭のイカレたサイコパスってのがいるんだよ」という怪談レベルの会話に近い。ネットは匿名であり、記述者のバックボーンも不明であるが、記述しているものが子供の可能性もある。もしくは大の大人がそのようなことを書いているのなら、さっさと家にあるあらゆる画面は消して実社会を見つめたほうがいい。