好き勝手書くブログ

日々のニュースや出来事の中から書きたくなったことを突然書くブログ。

日本人の潔癖性による弊害

前エントリーでは日本人が損をしたくない国民性であると述べた。

ではそれによって起こる弊害とは何か。

それは「人のせいにしやすい」ことでである。

?と思った方もいるかもしれないが、事実日本人は「人のせい」にしやすい。端的なのは政治であろう。自分が政治に参加していると思っている日本人はどれだけいるか。おそらくほとんどいない。「お偉い先生方がやってること」と捉えてはいる人が多いはずだ。しかし、増税など自分に不利な法案が出ると急に「反対だ」「あいつはダメだ」という世論になりやすい。政府が失敗すると急に断罪報道が加速し、総理辞任の空気になる。これまで一体何人の首相が任期満了しただろうか。逆に何人替わったのかという事態だ。

政治に参加している空気が無いのに政治家はやたらに責任を取っているのが日本の政治である。

これは日本に蔓延する「人のせい根性」の典型ではないかと思うのだ。

では、なぜ人のせいにしたがるのか。それは潔癖だからである。自分は間違っていないのだ。間違うのは他人のせいだあるからだ。正確には私は損をする選択はしていないのだ、損させられたのは他人のせいだあるからだとなるのだ。リスクを極限まで減らす選択ばかりした結果、リスクには触らないしリスクを受け入れられない。

このような人々が集まり社会ができると、自分にリスクを負わせることはご法度であり、逆に同じコミュニティで共存するには、相手にもリスクは負わせないことが大事である。ということになるとお互い突っ込んだ会話や異なった意見を議論するのはご法度である。「なあなあ」が一番良いということになる。外国人から見て自分より他人を尊重する日本人がすばらしいといわれることがあるが、これはリスク軽減の裏返しである。尊重しているというより面倒なことに巻き込まれたくないというのが本音である。となれば政治のような明確な回答の無い、意見が分かれることが当然の議題は避けるのが賢明である。したがって政治には突っ込まないことが恒常化し、「政治には関わらない。やりたい人がやって」と言う状態になり、政治に無関心な国民が増殖するのである。

しかし、社会と言うのは正解だけの選択をしていくことは出来ない。どこかで「ベターな選択」というのをしていかないと成り立たないのである。そこで日本では「年長者が選択権を持つ」という基準が自然と生まれた。何かの選択をした際に若輩者が的確な意見を言う事もある。「この方がベターではなかったか」と。しかしそれでは自分がリスクを負うことになる。したがって「私にはあなたには無い「経験」がある。だからあなたより私のほうがベターだ」という論調を立てる。「経験」とは単なる「年数」ではあるが、年配者と若輩者にある差ということでは明白ではある。歳を取っているのだから当たり前だ。ここには反論の余地が生まれない。これにより、「能力」より「経験値」が優先される年功序列が益々有利な状況となる。したがって日本では「先輩は絶対」という学生体育会系の幼稚な理論が、一般社会にも蔓延している。

ちなみに体育会系の上下関係理論とは、私が考えるに、小・中学生時点では成長の差は天と地の差ほど大きい。したがって同じフィールドなら高学年のほうがスポーツで上位になるのが当たり前である。このことから「先輩のほうが成績が良い」ということになり、それをどこまでも引きずっている単に幼稚な理論であると推測している。高校大学クラスになると能力差で先輩後輩の差など成績上ではなくなってしまう場合も多いのだが、上記のような「経験」という無意味な論調によって打ち消しているのである。

ではなぜ「人のせい」では問題なのかと言うことになるのだが、これは説明の必要も無いほどである。日本では基本的人権はじめ、さまざまな権利が保障されている。しかし権利とは本来「義務を果たし、主張することで得られる」物である。では「義務」とは何であるか。いわゆる3大義務のことではない。「自分のリスクは自分が負わなければいけない」ということ簡単に言うと「自分の行動・言動・その他は自分で責任を持たなければいけない」ということである。「人のせい」とは「自分の責任を他人に転嫁する」ことである。「こんなの当たり前」と思うかもしれないが、実はこれを全く理解できてない日本人は多数いる。政治の話が一番の典型で、議員とは選挙で選ばれた国民の代表である。したがって議員の言動・行動は国民の意思によるということが担保され、民主政治が成り立っている。しかし日本では政治無関心である。「偉い先生方がやってること」である。本来政治家が不祥事を起こすのはある一面で国民全体の責任でもある。したがって選挙では真剣に人物を吟味し投票する。しかし人間であるので不祥事が起こるリスクはある一定の確率で存在する。その際は国民はある一定の責任を負いながら、議員の責任を追及し処分を決めるのである。しかし、実際は国民が責任の一端をになっている感覚も無く「ころころ首相が替わってなにやってんだ」という論調が蔓延していないだろうか。ころころ首相が替わる事態を国民が重く見て、投票率が上がるようなことがあるのだろうか。逆に下がってはいないか。これでは責任転嫁といわれても完全否定できないはずだ。

理研のSTAP問題についてもそうだ。確かに小保方氏はユニットリーダーである。責任を取る立場である。しかし理研任命責任がある。国民と議員の立場に近いものがある。私は理研の会見には「私たちは何もタッチしていません。小保方だけが悪いんです」といっているようにしか受け取れなかった。結局代表者を立てて問題が発覚した場合には責任者の首を切る(首相を替える)だけ。根本の責任を重んじなければ解決したとは到底言えないのではないか。

理研だけではない。日本におけるさまざまな事件で、トップの首切りだけで済ます事象はあとを絶たない。

一般社会にも弊害はある。自分の責任を転嫁する「年功序列社会」を作りつつ「平等」意識だけはやたらに高くないか。本来責任の担保の重さ(よりリスクを負ったもの)により、より多くの権利を得る「公平」が原則のはずであるが、「私にも同じ権利がある(リスクは負いたくないが)」という思考を目にしたことは無いだろうか。あるいは自分がその思想になってはいないか。

全くの「平等」というのは資本主義経済・民主主義政治の日本ではありえないことである。個々の抱えるリスクは皆違う。したがって個々の得る権利は皆違う。はずである。能力が高いものはよりレベルの高いチャンスを得られる。同時に高いリスクも負う。結果成功した暁には高い収入を得ることもある。しかし日本ではリスク以前に年功によって高い収入を得るシステムである。このことにより大変な弊害を生んでいることを気づくべきだ。

極端な言い方をすると、好景気時は「仕事が勝手に舞い込む」「持っているものが勝手に値上がりする」のでリスクを負う要素が少ない。が、不況時は「待っても仕事は来ない」「黙っていると持っているものがどんどん値下がりする」状況である。前者ではリスクを負う必要性は少ないかもしれない。しかし後者の世の中では挑戦することでリスクを負ってでも自ら獲得していかないとどんどん落ちていく一方である。日本の現在の状況はどうだ。バブル崩壊後下がる一方ではないか。他の国では景気を戻した国もある。しかし日本は大不況が何十年にも及んでいるのだ。リスクを負う挑戦を怠った結果ではないか。

また、インターネット時代になり各国では若いイノベーションから新しい企業(ベンチャー企業)が次々と誕生し、景気を後押ししているが、日本で勢いのあるベンチャー企業をすぐに思い浮かべることができるだろうか。「この若輩者の企業は信用できない。」「先輩企業を立てろ」という気質により、ベンチャーは育たないと感じているがどうであろうか。

ライブドア事件のときはどうであったか。粉飾決済は確かに違法であるが、その「利益を上げる方法」にヒステリーが起こらなかったであろうか。「あんな方法で得た金などろくなもんじゃない。」と言う批判が無かったであろうか。ライブドアは株で稼いだだけである。株で稼ぐのは違法であろうか?その金で自分より先輩の企業を買収するのは違法であろうか?株や企業買収はライブドアにとってリスクを伴うものである。リスクを取って「結果」成功したから億万長者になった。失敗するリスクは常にある。このこと事態を批判してはならない。批判するのはその手法の中に違法性がある場合のみである。私はあの時人が長者になるのがいけないことであるかのような報道・世論に驚いたことがある。

STAP細胞にしてもこのままでは理研の保身のために、発見自体が闇に葬られる危険性さえある。本当であれば有益なのにもかかわらず。

 

昨今「不景気」を問題視する声がある。そこに安倍首相は「アベノミクス」というキャッチフレーズで景気を上げようという制作を始めた。しかし、この「損したくない国民性」が是正されない限りそう簡単には景気回復は見込めそうも無い。少なくとも自力で上向きへ持ち上げる力は無いだろう。この責任を単に首相に負わせないで欲しい。まず国民一人ひとりが「リスクを伴う改革」をしなければいけないだろう。